8節では、聖霊が臨むと、弟子たちが力を受けることを、イエス様が預言しています。
五旬節の日、弟子たちは、聖霊を受けて変えられてしまいます。十字架の時、恐れて逃げてしまった弟子たちが、それから、たった50日後に急に変えられてしまうのです。彼らは、
大胆に、イエス様がキリストであったことを、語り、投獄や、殺されることも恐れないようになるのです。これはまさに、聖霊の働きです。聖霊によって変えられたのです。
そして、彼らは、イエス・キリストの証人となるということも、預言されます。この”証人”
という言葉は、殉教者というような意味合いも含む言葉であるということです。まさに、命をかけて、彼らは、イエスキリストが生きておられること、十字架と復活の福音を伝えるようになるのです。これは、まことに不思議なことで、びっくりするような弟子たちの変化です。
今、教会で、神は、礼拝において、力を注いでおられます。アズベリーの証とともに、そして、賛美の強められることともに。パウロ秋元牧師が、昨日、いっておられたことは、
リバイバルとともに、迫害が来ますが、「最後まで、使命を全うできるかな。」という思いは「その思いは、違います。」と神に言われたということなのです。
私は、これを聞いて、今、感動しています。
「主のところに行くなら、今までどんなことがあっても、楽に進んできたし、振り返ってみると、楽しかった」ということなのです。「どんな厳しい状況があったとしても、主のところに行くと、すべてが変えられてきた」ということなのです。
だから、「この後、迫害があっても大丈夫かな」という思いは違う思いなのです。恐れる必要もなく、不安におちいる必要もない。私は、迫害に関してのイメージが、変わってしまいました。
かつて、共産圏の国に行き始めた頃、長崎に私は行って、初めて西坂という26聖人の
殉教の地で祈り、殉教に対する、暗い重いイメージが、変えられてしまいました。そして、殉教は圧倒的な喜びがそこにあったと、変えられてしまいました。
が、今回は、迫害に関する思いが、変えられてしまいました。
どうしてかと言いますと、確かに、今まで、この先に不安なことがあり、あるいは問題の真っ最中にいたとしても、主のところに飛び込んで、祈っていくと、解決してしまっていたのです。ですから、それは体験的なものであり、こののち迫害ということがあったとしても、主のところに行くなら、助けてもらえる、という、確信があり、圧倒的な勝利が用意されているということなのです。これは、聖霊による思いです。
私たちは、聖霊によって思いが、変えられてしまうのです。そして、恐れが消え、生き方が変えられてしまうのです。
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