昨日のお話の続きです。
「リバイバルの鍵は、神を待ち望むことですね」なんてことになるとまた、
お話が難しくなりますね。神を持ち望むとはなんぞや、ですね。
やはり、詩篇を読むと、待ち望むことの言葉が、よく出てきます。
例えば、私たちは、教会が始まって開拓当初2、3年は、もうスグにも
リバイバルは、やってくるのではと、そうですね、もう3、4年とか5、6年とか
もしかしたら、来年にも起こるのでは、みたいな感覚で、期待して、リバイバルを待ってました。そうしたらある年数が経ってから、今やっと、リバイバルの山のふもとに立ちました。見たいなと預言が、あったんですよ。みんな、「えーっ、やっと、ふもとか」
なんか、まだまだ、みたいなその預言に驚きつつ、でも、「妥当かな」なんて吟味しつつ
しかし、だからと言って、すごくがっかりしたということでもなく。
神様の素晴らしいリバイバルの時は、明日にもくるのではなかろうか、みたいな、本当に
期待して、ワクワクしながら待つ姿勢、これが、神を待ち望むっていうことかなと、思わされます。期待して、待つので、決して、その時は長く感じられないんですね。私は、今でも
洗礼を受けたころの19歳の頃や、25歳ぐらいの頃の、期待感が、今でも同じように
よみがえってきます。自分が、あの頃とあまり変わらないなと思うんですね。
多分、40年間待たされた、ヨシュアとカレブも、きっとこんな感じだったのでは、と思うんですよ。リバイバルを、今日も体験している感じなんですが、さらにまさる、その時を、期待してもっと素晴らしい時を、待っているのです。神を待ち望むとは、リバイバルの鍵だと思うのです。(写真 福島聖会で、今日洗礼式が行われました。おめでとうございます。)
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