「リバイバルの鍵ってなんでしょうか?」
と、尋ねたら、いろんな答えが、返ってくる気がします。
ある方々の層は、「リバイバルって何?」
という方々がいるだろうと予想されますが、しかし、あえて、
この質問をしたら、「こうだ、ああだ」と言いたくなる人々を想定してこの文を、書いてみます。私の頭の中には、もう何人かの顔が浮かびます。
「リバイバルの鍵ってなんでしょうか?」
やっぱ、”聞き従い”でしょう、って言いたくなりますかね、TLEAの方々ならですね。
リバイバルが起きていくためには、聞き従いなくして、起きるはずもない。
例えば、お隣の国で起きた、韓国大リバイバル。やはり、チョー牧師は、崔牧師は、聞き従いで、同感ですよね、きっと。でも、祈り聞き従いというかもしれませんが。
やっぱり、感謝と賛美でしょう、というなら、マーリンさんでしょうか?
でも、「もっと違う角度から、話してくださいよ」と言ったら、「じゃ、預言ですかね」
なんて、話が進みますか?後の雨のリバイバル、と言ったら、預言なんですね。ラインハルト・ボンケさんは、アフリカで、一回の集会で、人々が、何百万と集まって救いが起こった人です。何百万と救いも起こった人です。最初の小さい教会の時に、たくさんの預言があったそうです。何もなかったけど、神様の言葉はたくさんあったということです。それって、うちの教会と似てるんですね。
アルゼンチンリバイバルでは、み使いが、メッセージ、預言をたくさん持ってきたそうです。だから、やはり、リバイバルの鍵は、預言であると、言いたくなる人もいるでしょう。
私たちの、教会当初の頃、やっぱり、預言がたくさん与えられる集会に行きたかったですね。預言をとうして、与えられる、神の言葉が聞きたいんですよね。燃やされるというか・・・。
そういうのありましたね。礼拝よりも、預言がたくさん出る、早天祈祷会とか、徹夜祈祷会とか、あるいは、聖会とかね。出て、聞きたかったですね、預言の言葉を、たくさん。預言は、人を、リバイバルさせる面があるんですね。
そうなんです。預言によって、励まされたり、特別な、悟りが与えられたり、予告の預言で、目標ができたり、希望が湧いたり、霊が燃やされたり。
だから、リバイバルの鍵と言ったら、預言ですかね、という方向でも、話は進むでしょう。
でも、「リバイバルの鍵ってなんでしょうか?」と言ったら、
やっぱり、「神を待ち望むことじゃないですか」という切り口のひともいるはずですね。
(文が終わらないので、次回の記事に、続く)
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